たったひとつのたからもの  教会長    

  生まれてすぐにダウン症と診断され、その命は長くない可能性が高いと診断された秋雪くん。両親は最初、何も考えられることができないほどのショックを受けますが、次第に「この事実にしっかり向き合わなければ、秋雪に失礼だ」「秋雪が私たち夫婦のところに生まれてくれたのは、私たちが、困難に立ち向かえるということだから」と感じられるようになり、一日一日、秋雪くんと朝を迎えられることを喜べるようになります。

 「人の幸せは、人生の長さとはちがう」という、主治医の言葉。重いながらも、その言葉の意味をかみしめる両親。そして秋雪くんは6年数ヶ月という短い生涯を終えますが、両親にとっては、かけがえのない年月とたからものを授かったという思いを胸に抱きます。

 これは、中学2年の『道徳』教材の中にある「たったひとつのたからもの」というお話です。先日、生徒たちにこのお話を紹介し、一日一日を大切に生きることの大切さを伝えました。
 話の中で、二男の話をしました。超未熟児で誕生し、生命の危険があったこと。生後50日で「先天性心房中隔欠損症」と診断されたこと、私たち夫婦が「一日一日希望を持って親子とも生きていけるように」という思いをこめて「日々希」と名付けたこと。奇跡的に手術をすることなく、元気に育ち、成人して社会人になったことなど。

 生徒たちは、「先生のお話に感動した」「私も一日一日を大切に、元気に朝起きられたことに感謝して生きていきたい」「先生はとてもお子さんを愛してらっしゃるんですね」「命ってとても大切なものだと、改めて理解できました」などの感想をよせてくれました。

 長年、金光八尾で「宗教」の授業を担当し、「金光教で教える」ことを実践してきましたが、公立学校でも、宗教情操にかかわるお話が通用することを実感できました。授業ではさすがに言いませんでしたが「秋雪が私たちのところに生まれてきた」=「両親にとって、秋雪くんは神様のお差し向け」だったのです。

 人は、色んな難儀や不都合なことに出会います。そのすべてを「神様の差し向け」ととらえて生活するのは、さすがにしんどいでしょう。しかし、「今起きている難儀なことで、神様は私に何を教えようとしてくれているのだろう?」と考えることで、心が神様に向きます。それが、金光教の「信心」そのものですね。




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